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「年収100万円」人材に成り下がる人

スマホを捨てよ、町へ出よう――。デジタル全盛の時代、代わりの利かない人材になるための材料は身の回りに転がっている。

■できる人の共通点は「旺盛な好奇心」
 昼食をとろうと池袋の雑踏から少し離れた定食屋に入った。隣の4人掛けのテーブルに同じ会社に勤めていると思われる30歳前後の4人組が座っていた。同じ会社だと思ったのは、知らぬ人同士の相席のようなぎこちなさがなかったからだ。

 でも、この4人は私が定食を食べ終わり、店を出るまで、結局一言も会話をかわすことはなかった。4人のうちの3人はスマホ相手にゲームに夢中。もうひとりは漫画本に熱中していたのだ。

 昼休みに何をしようとその人の自由だ。でも、私は彼らの様子を見て、大きな違和感を感じた。

 スマホや漫画がけっして悪いわけではない。こうした文明の利器や娯楽文化は、私たちの生活の利便性を高めたり、豊かなものにしてくれる。しかし、それらは人間から貴重な時間を奪い、現実から逃避する手段にもなりえる。私がスマホや漫画に熱中する人たちを見て危惧したのは、彼らが自分だけの世界に逃げ込み、一切の関わりを「遮断」しているように見えたからだ。周囲で起きていることや他の人たちにまったく関心がないように私には映った。

 彼らはこの昼休みに何かを感じたり、何かに気づくことはあったのだろうか? 

 会社から定食屋に来るまでの道すがら、木々の緑や初夏の風を感じたり、商店街の店の様子に関心を寄せるようなことがあったのだろうか? 

 同僚と上司の愚痴を言い合ったり、会社の他の部署で起きていることに興味を持つことはないのだろうか? 

 どんな仕事であれ、仕事ができる人に共通するのは「好奇心」が旺盛なことである。自分の身の回りのことからいろいろなことを感じたり、小さな変化に気づく。そして、そこから発想を膨らませたり、新たなアイデアを生み出すことに長けている。スマホや漫画に逃げ込んでいたのでは、人間の感性は錆ついてしまう。

■ユニクロ「世界同一賃金化」は合理的
ピーター・ドラッカーは21世紀は「ナレッジワーカー」(知識労働者)の時代だと語った。労働力を提供するだけの単純労働者の価値は低下し、高度に専門化された「知識」によって企業や社会に貢献する労働者のみが成功する。

 ドラッカーはナレッジワーカーの例としてコンサルタントや高度金融工学を駆使するディーラーなどを挙げたが、ナレッジワーカーはそうした一部のプロフェッショナルだけに限ったことではない。一般企業においても、ナレッジワーカーの重要性はますます高まっている。いや、ナレッジワーカーでなければ生き残れない時代になっているのだ。

 ナレッジワーカーの概念は、従来のホワイトカラーVSブルーカラーという分類を無意味化させる。大卒・大学院卒であっても、知的生産物を生み出さない社員の価値は低い。一方、高卒の現場ワーカーであっても、知恵やアイデアによって知的生産物を生み出すことができれば価値あるナレッジワーカーである。

 「ユニクロ」を展開するファーストリテイリングは、全世界の正社員と役員の賃金体系を統一する方針をぶち上げた。柳井正会長兼社長は朝日新聞のインタビューで「年収1億円か年収100万円に分かれて、中間層が減っていく」と語り、大きな話題となった。

 社員の貢献をどう測るのか、年収差はどの程度が妥当なのかなど実際の運用はそう簡単ではないが、単なる「業務遂行型」人材の価値は目減りし、「知識創造型」ナレッジワーカーの価値が高まるというのは、きわめて合理的な流れだ。

 企業の論理からすれば、ナレッジワーカーのみを正社員にしたいというのが本音だ。代替可能な「業務遂行型」人材を自社で抱える必要はないし、業務変動に応じてバッファーとして使っていくのが最も経済合理的である。

 つまり、ナレッジワーカーに変身できなければ、企業内で生き残っていくのはますます難しくなっていく。スマホや漫画ばかりに熱中して、貴重な時間を奪われ、己を磨く努力を怠っていたのでは、ナレッジワーカーになるどころか、「年収100万円」人材に成り下がっていくばかりである。

■ アイデアの源泉「感知力」を磨け

 持って生まれた才能で、ユニークなアイデアを次々に生み出す人も稀にはいる。しかし、多くの凡人は日頃の鍛錬なしにはナレッジワーカーにはなりえない。

 その第一歩は、感じる力、すなわち「感知力」を磨くことである。ナレッジワーカーとは新たな知恵やアイデアを生み出すことができる人材のことである。そして、知恵やアイデアの源泉は、人間の持つ感じる力である。

 世界初の編み機を次々と生み出す島精機製作所では、新入社員採用の面接時に「ちょっと立って、くるりとひと回りしてください」とお願いし、「何か感じましたか? 」と尋ねるという。応募者の感知力を試しているのだ。ある雑誌の対談でお会いした際、島正博社長はこう教えてくれた。「ひと回りする1秒の間に何も感じなかったらゼロ。ゼロに何を掛けてもゼロ。たとえ1秒でも何かを感じる感性がほしい。感じなければ、一生何もなくて終わってしまう」。「五感で感じたことが、第6感(閃き)にゆきつく」と島社長は強調する。

 それでは、どうすれば感知力を磨くことができるのか? 

 何より大切なのは、日常生活において「観察」する癖を身につけることだ。

 観察とは意識して見る、すなわち「観る」ということである。常にアンテナを高くして、周りの事象や変化に目を凝らす。周囲の事象や変化に気づくことが、「感じる」ということである。

 何かを感じれば、そこから頭が回り始める。なぜこうした事象が起きるのか、なぜ変化しているのか。何も感じなければ、問題意識は生まれず、思考は始まらない。

 私が若者たちと出会った定食屋でも何かを感じることはできる。

 「場末の定食屋なのにすごい人気だ」「日替わり定食を頼んでいる人が多い」「無骨そうな親父さんと愛想のいいおかみさんの2人だけで切り盛りしている」……。

 何かを感じ、気づくことが起点となり、問題意識が生まれ、疑問を持ったり、「なぜだろう? 」と考え始める。そして、それが自分にとっての新たな「発見」となり、「発想の芽」となる。

 観察対象を変えることによって、新たな刺激を得ることもできる。私はできるだけ同じ道を通らないようにしている。いつも降りる駅のひとつ手前やひとつ先で降りて、歩くこともよくある。電車ではなく、バスに乗ることもある。

 こうした行動は、異なる環境に身を置くことで、異なる観察対象と出会い、異なる刺激を得ることが目的である。アンテナを高くすることも大事だが、対象物がいつも同じでは、同じものしか知覚できない。「日常の非日常化」はナレッジワーカーになるためのとても効果的な方法論のひとつである。

 デジタル全盛の時代だからこそ、アナログが武器になる。時にスマホや漫画を置き、街に出て、観察してみよう。街には感知力を鍛えるための材料がたくさん転がっている。




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